xwhitelotuskun’s diary

顕正会脱会→日蓮正宗へ。

解散処分を受けた原因①

顕正会は、かつて「妙信講」と称し、日蓮正宗法華講の一講中として活動していました。

正本堂の意義付けについて創価学会と激しく対立し、やがて時の法主であった第66世日達上人様の指南に背いたため、昭和47年に日蓮正宗より講中解散処分に付されました。

 

「妙信講の発足」

妙信講は昭和17年日蓮正宗妙光寺の総代であった浅井甚兵衛が、妙光寺講中の一つとして設立したものである。

しかし、講の中心者である浅井甚兵衛・昭衞父子は独善的で身勝手な行動が多く、所属寺院の御住職の指導も受け入れず、戦後の混乱期に法道会(法道院)所属に所属を変更したが、ここでも問題を起こし、昭和32年に法道会を離反した。

そののち宗門より昭和33年1月、妙縁寺所属の法華講として再認可された。

昭和37年に全国法華講連合会が発足されたが、妙信講は連合会に加入することを拒否したため?、昭和39年8月19日以降の5年間、総本山に登山できない状態となった。

 

「解散処分の発端」

正本堂の意義について宗門や創価学会と激しく対立したこと。

当時の創価学会会長・池田大作会長は、正本堂を『三大秘宝抄』『一期弘法抄』示される御遺命の事の戒壇堂であるとの断定発言を行ったこと。

その後ことあるごとに、自分が会長の代に

御遺命達成・広布達成を成し遂げたという発言を行ったこと。

これに対し、妙信講は「大聖人の御遺命の戒壇は、天皇の勅宣と御教書(政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇は天母山に建てるべきである」と主張し、正本堂建立をもって「御遺命達成」とする池田会長に異議を唱えた。

 

国立戒壇固執

この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、

これに付随して「国立戒壇」という名称に関しても、社会的に大きな問題となりつつあった。

そこで宗門は、国立戒壇という名称を使うことは布教の妨げになるとの判断から、昭和45年5月、今後は国立戒壇という名称は使用しないということを宗内外に公表した。

宗門はこれを機に、妙信講に国立戒壇固執する考え方を改めさせようとした。

 

日達上人御言葉(昭和45年5月3日)

「明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前にはそういう名称はなかったのであります。」

 

・当時弘教のために用いた「世間普通の義」であったが、今日名称がそぐわなくなった。

※大聖人御在世の鎌倉時代にも、明治以前には『国立戒壇』という用語は存在しません。当然、御書には出てきません。